人をしあわせにする『サービス精神』について

 わたしはあんまり人を楽しませようとか、気分良くいてもらおうとかって思わない方かもな、と思う。何かを便利に使って欲しいとか、わかりやすく説明したいとかはあっても。そういう至らなさって、わたしが着る服とか、聴く音楽とか、いろんなことに現れてると思う。人が自分の服をどう思おうが構わないと思ってる。ダサいかっこで人と一緒にいることを厭わないというか。自分の聴く音楽の種類を人がどう思うかなんて、考えたこともない。自分にとって心地の良い音楽にしか興味がない。
 『サービス精神』ってなんなんだろな、と思う。
 『サービス精神』を英訳してから和訳し直すと『もてなしの心』という言葉になる。『サービス精神』は英語だと"Entertainment"がしっくりくるけど、ちょっと足りないかな。『もてなしの心』は"Hospitality"だろうと思う。EntertainmentとHospitalityの境界あたりに『サービス精神』という言葉はありそう。
 『サービス精神』は人と接するのに、必須の能力であるように思う。多少なりとも無いと、人とはうまくやっていけないと思う。それは人を笑わせるとか、朗らかにさせるとか、和ませるとか、そういうことも言っていると思う。面白い人、っていう言い方があるけど、あれって、『サービス精神』がある人ってことなのかもな、と思う。
 わたしはサービス精神のある人にとても憧れてる。わたしにサービス精神がないからだと思う。ここ数年、自分のことばっかり考えて生きてきた。今、わたしの周りにはほとんど人はいない。だからサービス精神を発揮しようにも、そうする相手がほとんどいない。わたしの輪郭はきっと柔らかくない。凝り固まっていると思う。堅苦しい人間というよりも、余裕のない人間と思う。人に笑われてもいいというような大らかさがあれば、全然違うと思うのだけど。わたしはサービス精神のなさの極値として、しゃべれないのかもしれないと思ったりする。
 しゃべれないことを、人にどう思われたっていいし、しゃべるということをどう思ったっていいと思う。そんなに大したことじゃないと思えばいい。そう思うしかない。
 どっちかっていうとわたしは職人向きかもしれないと思う。エンターテイナーにはなれそうもないし、なる気もない。変に真面目すぎるというか。裏方として、コツコツなにかやっていたい。真面目なだけじゃたぶんダメで、何かに秀でていないと、何もできない人なんだよね、それは、たぶん。サービス精神の発揮の仕方を自分で見つけて、ハマるところにハメていかないと、生きていけないと思う。職人としての、サービス精神の表出の方法というのがあるんだと思う。人を笑わせることだけが、サービス精神ではないとも思う。それは価値の提供なのかもしれないし、人として存在感が薄いという価値もあるかもしれない。
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 人が喜ぶのを見るのがうれしいというより、不便をかけたくないみたいな気持ちの方が今の自分にはある。プラスでいて欲しい、プラスにしたいというより、(自分のせいで)マイナスであって欲しくないというか。マイナスになるくらいなら、自分はいない方がマシ、というか。卑屈だ。自分に自信がないというか、人を楽しませるだけの魅力を持つことを、わたしはもう諦めてしまっているのかもしれない。人を笑わせることだけが、人間の魅力なのだとしたら、わたしは絶望するしかない。
 楽しませたいとか笑わせたいとはあんまり思えなくて。人並みに、楽しみたい、笑っていたいとは、(たぶん)思ってると思うけど。機嫌よくありたいとは思ってる。人を楽しませるノウハウがないのか、ノウハウがないから余計にそうしようと思わなくなったのか。そういう過程環境だったのかもしれないし、それで済んできてしまったのだと思う、人生が。
 人を楽しませることができるかどうか、と、そうしようと思うかどうか、は別と思う。自分のしたいことをして、意図せず楽しませる人というのもあるかもしれない。スポーツ選手の多くは、観客を楽しませたいというよりも、自分たちの勝利を求めてると思う。その結果や過程を観客は楽しむのだ。それはもちろんそれだけの技術や価値を兼ね備えているわけだけど。
 楽しませようとしてもそうできない、ということなんて往々にしてあると思う。そこにはサービス精神はあるのだと思うけど、何らかの技術や心意気が伴わず、うまくいかないのだと思う。そういううまくいかなさって、改善できたり上手くなっていくものなのだろうか。
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 わたしはノリ良くとか空気読むとか、あんまりできる方じゃない。集団でいるときに、これをしたら、あるいはしなかったら、雰囲気が悪くなるなぁとかあまり思い浮かばない。自分のしたいことを素直にしてしまう傾向にある。それでうまくいかなかったこともしばしばあったと思う。そういうのを協調性がない、というのなら、たぶんそうなのだろう。だけど、集団の迷惑になる、ということには敏感だったと思うし、気を使う方だったと思う。ウケを狙うとかそういう方に向かっていかないということ。そこに線を引くのは大きな違いだと思う。わたしはピエロになりたいとはあんまり思えないのだ。エンターテイナーにはなれない。プライドが高いというだけなのかもしれないけど。笑われたくないというか。
 そういうの、どうでもいい、ってなったら楽しくなるだろうなー、とは思ってる。人を喜ばせたいと少しでも思うようになったら、そのことを自分の喜びとするようになったら、人生変わるかもしれない。
 こういうことを考えてると、漫画家の赤塚不二夫さんのことを思い出す。それ以前は真面目だった人が、そうじゃなくなった、という話。なにかきっかけがあったのだと思うけど、なんだったんだろう。
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 自分のしたことで、人が喜んでくれるということ。なにかリアクションがあるということ。それはなにかリアクションを求めてしたことでなくて、ただ自分がしたいからするということ。あるいはリアクションを求めてなにかするということ。喜ばせようとしてすること。そう意図はせずに結果として喜んでもらえるということ。自分のしたいことをして、喜んでもらえるということ。あるいは自分のしたくないことをして、喜んでもらえるということ。
 自分の輪郭の拡張、自分の輪郭の形態の変化。自分の輪郭の変化による他者への影響。それは、自分の生きたという証なのか? そうなのだろうか。そんなことのために、わたしは生きているのだろうか。わたしはわたしが幸せであるために生きているんじゃないのか。
 わたしはもちろん、独りでは生きられない。そして、できる限り、幸せに生きたい。自分自身を、大事に思っている人を、幸せにすることが、わたしの幸せであることは、疑いがない。それを死んでしまうその日まで、自分なりのやり方で、サービスを追求し続けていくことが、わたしのするべきことなのだ、と思う。

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