友情について

 友情に関する文章を書こうとすると、自分の友情についての価値観みたいなものを暴露することになってしまって、そこに欠陥があるとすると、それはつらいな、と思ってしまう。別に無理して書く必要ないことですし。
 鑑みて、他の書いてることだってたぶんそうなんだけど、友情はなんか柔らかいとこに触ってしまう。やっぱりコンプレックスに思ってるのかしら、と思ったりする。どうでもいいと思ってる時もあったのだけど、ここ数年はちょっと気にかかったりしてる。友達って、なんなんだろう。それを解き明かすことが、自分にとって必要なことと思う。ので書く。
 なんで友達の話題が柔らかいのかというと、これを読んだ人を失いたくないからかもしれない。コイツこんな友情感で生きてんのか、クズだな……!みたいに思われるのが嫌なのだと思う。ましてや読んだ友人を失うのはもっと嫌だ。
 わたしは友人の定義の話をしたいわけでもないし、友人に対してどういう思いを持っているかを語りたいわけでもない。友人はわたしにとっての友であって、それは何年も連絡を取っていなくても、きっとそうである、あって欲しい、と思ってる。凍結している関係をわざわざ溶かす必要はないけど、そうできたら楽しいかもしれないし、そうでもないかもしれない。本当に悲しいことにもう会えない友達というのもある。
 友達と逢ったら感慨はあるのだろうけど、あまり過去の記憶に浸りたくないという気持ちもある。かといって今の話はもっとつらい。未来の話はなおさらであるし、たぶんわたしたちの年齢になるともう、将来のレールの決まってしまっている人ばかりだろうと思う。ローンを背負ってる話ほどつまらないものはない。夢を語るという歳でもないし、そもそも若い頃からそういう話はしてこなかった。
 共通の趣味を持っているというわけでもなく、同じ価値観を持っているというわけでもなく、人生の一時期を共に過ごした人たちがいる。それは学校が同じだったり、職場が同じだったりしたのだろう。なんらかの共通点を持っていると友人にはなりやすいのだろうけど、どうもそれだけではないと思う。
 わたしは人生において、自分の容姿とか能力によって評価されるということもほとんどなかったし、受け入れてもこなかった。だから、たぶんそういうことでは繋がっていないのだと思う。じゃあなにで繋がっているのだ、と訊かれても、自分でよくわからない。ただなんとなく繋がっている。互いが互いをなんで繋がっているのかもよくわからないまま、なんとなく今日まで来ている。いや、もっと簡潔に学校が同じ、何々が同じだったということはあるのだろうけど、でも、それなら3桁の人が友達であるはずなのに、そうはなっていない、たぶん。
 おそらくわたしは誰と話しても楽しめるという性癖は持ち合わせていない。かといって選り好みしているわけでもない。「どうでも良い」というただそれだけなのかもしれない。ただ縁があって、たまたま気があって、というか気を合わせて、それで一緒にいた人たちに過ぎないかもしれない。それでもわたしにとっては大事な人たちに変わりない。
 わたしの人生にそうはいなかったのだけど、わたしと友達になりたいという人がいたとしたら、その人は相当にやきもきしただろうと想像できる。なぜなら、わたしは気まぐれだし、どうでも良いと思ってるし、なんの考えもなかったと思うから。基準がないというか。「どうでも良い」って投げやりなのではなくて、どうあっても良いということだと思う。誰とでも友達になれるし、誰とも友達になれない。そんな感じだから、たぶんたくさん誤解されたと思うし、齟齬もあったと思う。今思えば。
 あまり派閥を作るのも入るのも好きな方でないし、一匹狼というわけでもなくて、みんなと適当に仲良くしたい方だったと思う。一人でもぜんぜん惨めな気持ちになったりしないし(本当に)、時間を潰すために人と何か暇つぶしするという発想に今まで生きて来て、なったことがない。それなら自分のしたいことしてた方がよっぽど楽しいって思う。暇つぶしという感覚が自分には全くわからない。そんな感性だから病気で寝ていても焦ったりしなかったのかもしれない(他にも理由はたくさんありそうだけど)。
 と、とにかく、「友達」って、みんないろんな言い方するけど、わたしにはよくわからない。いなかったらしかたないけど、いた方が楽しいかもしれない。わたしは孤独に慣れすぎてしまったし、その快感を知ってしまってる。だけど、それでも、時たまでも逢ったら楽しいという人はいるのだ。いつか、時が来たら逢ってみたいという人もある。
 たぶんわたしは開いたなら誰とでも友達(みたい)になれるし、閉じていれば周りが勝手に理由をつくって離れていくのだろう。でもその根拠だってたぶんなんの論拠もなくて、その人たちの思いたい想像に過ぎず、ただわたしが気持ちを作れなかった、というだけに過ぎなかったのだと思う。たぶん。
 思うにそんなにキャパ広く人と接する方でもないし、少数の人と時間を大事に過ごしたい方だと思う。誰とでも友達になれるかもしれない、というようなことを書いたけど、それはたぶん本当。そういう諸々の条件が揃えば、ということだけど。何度も書くけど、友達がいる、いない、あるいは作る作らない、ということに大してこだわりとか逼迫した何かとかを感じずにわたしは生きて来たのだと思う。だからこそ、誰とでも友達になれるともいえるし、誰とも友達になれない、ともいえる。わたしが握っている友情権について、自分で自分に右往左往したり、引っ掻き回されたりするのもなんだか疲れるのである。自分一人で誰かと友人になることはもちろんできないけれど、とにかく自分の場合、まずは自分の中に問題があると思う。開いているか、閉じているか。ここにその条件を列挙する気もない。というかよくわからない。それはわたしがそれなりに楽しく暮らしているからだと思う。必要としなければ、それが表面化することはないはずだし、それでいいと思う。
 人を好きになったり、嫌いになったり、あるいは愛したり、そうじゃなかったりする根拠って、ぼくには、よくわからない。誰だって好きになる要素はあるはずだし、そうじゃない要素もあるのが人間だ。誰でも良いとも言えるし、それでは困るとも言える。その境にある気持ちって自分には制御できない"やらかい"とこなんだと思う。
 人生に於いて、友達はとても大事なものだと思う。でもそれを深刻に捉えてこなかった。楽観してたというか、どうあっても良いと思っていたと思う。一人であっても良いし、友達がいたら尚良い、と。でも、友達はあった方が良いと思う。それは独りが長かったから思うこと。実感として思うこと。友達は代えようのないものだと思う。
 この人たちの期待に応えたいと、わたしは思う。そういう緊張感がなければ、人間は生きていられない。成長もできない。人の期待のあるところに、いつも身を置いていたいって、思う。だから、わたしを独りにしないでほしい。どうか、わたしにあなたを感じさせて。
 わたしは人を幸せにしたいし、幸せでありたい。
 自分を変えるとしたら、友達についての考え方は大きいと思う。積極的になろうと思えば、いくらでもそうなれる土壌はある。あとは、心意気。拡がっていく心を感じてる。もっとわたしは大きくなれる。

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