やる前から諦めているということ

 何をするにおいても、やる前から諦めているようでは話にならない。それは何かをしようとしているのではなくて、何かを諦めようとしているのだ。幸せになりたいという命題に対して、ハナから、いやきっとそうはなれないだろうと考えていたのでは、きっと私たちは幸せになることは叶わないだろう。
 やる前から諦めている自分がいる。今の生活に諦めている自分がいる。幸せのためにうまく頭を働かせ、振る舞い、行動すること、そして運を天に任せることが怖いと感じているのだと思う。
 うまく頭を働かせること自体が運であるように錯覚してしまっているかもしれない。思いつくことは「たまたま」であるかのように。思いつくことが必然となっていないかのように。そうあるべくして考えているという感覚が自分の中に希薄である。ある状況になったら、必ずそう思考するだろうか。たまたまであるとへつらっていないだろうか。そういう弱さを私は抱えている。どんな困難でも乗り越えることができる、思考して必ず突破できるという自負がない。いつもそうできているかもしれないのにも関わらずだ。それは謙虚なのではなくて、ある種の傲慢なのだと思う。
 うまくことを運ぶためには、運に頼る割合を極力低くするべきだと思う。それは考えを思いつく運──それは実際には運ではないのだが──も含めて。多くのことを確定していく。確実にしていく。固めていく。運の要素をなくす、それこそがうまく生きるヒントかもしれない。思いつくということでさえも必然にする。
 ある状況になった時に必ず名案を思いつくと、盲信する。思いつかなかったことなんてないのだ。いつだって誠実に、謙虚に、私は思いついてきたはずなのだ。なのに、諦めようとしている。うまくいかなかったとしたら名案を思いつかなかった所為ではなく、他に原因があったのではないか。どうせダメだと思っていることにどんな根拠があるのか。私は本当にダメな人間であるのか。どうダメな人間であるのか。案の実行に不備はなかったか。運を天に任せていないだろうか。
 諦めてしまっている自分。諦める根拠なんて何もないのに。ただやっても無駄「かもしれない」うまくいかない「かもしれない」と及び腰になっている。今までの人生、なんだってなんとかなってきたはず。やってみないことにはうまくいくかどうかなんてわからない。やる前から諦めていたのでは話にならない。うまくいく根拠ならいくらでもあるはずが、うまくいかないことばかりを考えている。
 いくら考えたとしても、及び腰で行動したら、うまくいかない。諦めなければ、必ず、幸せになれる。まだまだ先のことはわからないことだらけだけど、その度にきちんと知恵を絞って、行動していけば、うまくいく。そうすること以外に人生にやることなんてないんだ。

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