求められるということ

 求められることで成り立つことって、結構多いのかもしれない。こうして文章を書くことは、自分で書こうと思って書いているわけだけど、自分が求めた文章を書いている、とも言えるかも。誰からも──あるいは自分からさえも──求められないとしたら、その人の存在意義は脅かされてしまうかもしれない。少なくとも社会の中で生きることは難しいだろう。どんな人だって、社会の中にいるのなら、なんらかの求めに応じていると言えるんじゃないか。
 子は親の求めに応じて生まれてくるという言い方もできるかもしれない。そこに存在していることが、もう誰かの求めに応じているんじゃないか。生きている限り、どこかでだれかがあなたを求めているはず。
 あなたを求められているから、その仕事をあなたがするのだ。誰にでもできる仕事だとしても、そこにその時あなたがいるから、その仕事は成るのであって、それはあなたが求められているということに他ならない。
 (私のように)誰に求められるわけでもなく、ただ自分のしたいように何かをする人だって、少なくとも自分自身はそうすることを求めているはず。その価値が高まれば、それを求める人は増えるかもしれない。自分だけでなくだれかが自分を求めるようになるかもしれない。たとえ自分のためにしたことであっても、届くべき人に届くことがあるかもしれない。
 誰も自分なんて求めていない、なんて諦めてはいけない。自分あるいは自分のすることの価値を高め続けることで、拓ける未来もあるのだろう。
 仕事も恋愛も家族も友情も、求めるから成り立っている。どんなに自分には何もない、という人にだって、求められるべき何かはきっとある。この世界には幾億の人がいて、それぞれに何かを求めて生きている。
 求め、求められ、僕たちは生きている。期待されるのならできる限り応えたい。そうすることで、できることも拡がるのだろう。自分の可能性を潰す人がいるとしたら、結局はそれは自分自身だ。誰にも求められないとしたら、自分に非があるのだ。求められないとしても、それでお終いというわけじゃない。淡々と日々は続いていくのです。価値が不十分なら、価値を高め続けるしかない。鍛錬を続けよ。いつかどこかだれかに、求められる日があるかもしれない。やるしかないのです、生きるために。

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